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半透明なサラダ

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基本に立ち返るということ

 今年の三月くらいまで、わたしは他人の作品に感想を書きまくっていました。ですが、最近はあまり書いなくて。そして書いてると、いつの間にか手が止まって、書けなくなるんですよね。
 ここ数ヶ月は特にです。他人の作品を読む度、感想を書こうと思うんだけど、書けない。その理由がわからなくて、知りたくて、とにかく悶々としていました。
 ですが今日。丁度書きまくっていた時期の感想を見て、ようやく気づきました。

        ○ ○ ○

>かなが家に来るまでは、人見知りが激しくていつも家に閉じこもっていたゆうなも、今では家に帰ったら、すぐに友達と公園に行き、暗くなって俺たちが迎えに行くまで、元気いっぱいに遊び回っている。
▲これは典型的な悪文です。

 ↓改稿案

>ゆうなは人見知りが激しくて、家に閉じこもりがちな子だった。でも、かなが来てからは友達と元気に遊び回るようになった。暗くなって迎えに行くこともしばしばだ。
▲味気なく書いてますが、複文は切るのがいいです。主語は省けたら省き、述語と近くさせる。また修飾語と被修飾語もあまり離れないように。
 たいして重要じゃないことを省き、ひとつの文章で何もかも説明しないようにします。

        ○ ○ ○

 これはわたしが今年の三月あたりに書いた感想の一部分です。他人の文章を添削するという、いまのわたしからすれば極めてナンセンスな感想。でも、この添削、上手いんだよね。

 明らかに悪文なのを、基本に照らし合わせて、上手く添削してる。この自分の感想を見たときは、とにかく衝撃的でした。自分にこんな添削ができるのかと、自分自身驚いています。

 基本をないがしろにしていた。
 基本の大切さ、わかっているようで全然わかっていなかったのかもしれない。

 その後も自分が書いた感想を見続けました。何度も驚かされます。その感想に描かれているは、なんとわたし的なイメージのことばの具現の仕方なのだろうかと。
 最も相手に届くことばは、どれだけ嘘に近くても、あなたの本物の感情なのだ。そう自分自身に突きつけられた気分です。基本とは、自分のうちから爆砕する感情とは、本物のことなのだろうか。
 なんというか、最近は小説的であること、上手い話を作ること、上手い嘘をつくことばかりを考えていた気がする。それも大事なんだけど、身から出た錆というか、鬱屈から生まれる自分自身というか、そっちのほうが大事なんじゃないかというか。そういうのに近づいていたようで離れていたんじゃないかなと思わせられた気分。

 自分に、「最近、物語楽しめてる?」と労り慈しみながら問われている気分。

 ああ、そうさ、楽しんでるさ。楽しもうと努力しているさ! でも、何かが違うんだよ! あのころの、物語に触れ始めたころの純粋な気持ち、ざらざらと受け流し受け止めるような物語の接し方が、どうしてもできないんだ!

「違うね。あんたはもうそれに気づいてる。手に入れてる」

 何をだ! 教えてくれ! わからない!

「あのころ読んでいた物語は――物語がほんものだった」

 ほんものだった?

「そう。それは、物語が作者であったということ。それを悟って理解していたということ。それを共有していたということ。それに涙したということ」

 物語がいっしょだった ――。 作られたもの 。 それは 作者の表出 ……。 もしくは誕生 ――。 あるいは出会い 。 あるいは無限 ――。 あるいは涙 ……。 そしてほんものであるということ ――……。


 だから産まれます。ここに物語として。


 ことばは、この時代にあってとどかないもの。
 それにたいして、とどいたよ、つたわったよ、涙をながしたよ、そうやってことばを返して、あなたのところに帰してあげるのが、最上の物語であったということ。物語がほんものであったということ。

 表現の追求をこえて、それはいっしょだったということ。労り、慈しみ、なみだすること。

 物語は、読むがわの表現である。感想は、その表現の伝達でしかない。表現は、読むがわの導きの仕方である。だから技術とは、読んでくれたあなたのためにあるもの。
 そして自分を表現するということは、自分を表現されかえしたということ。

 物語がほんものであるということ。

 思考実験という肩書きもがいねんも捨てて、ばらばらになっていくということ。ばらばらになるのがとうぜんであるということ、纏まったものがその世界では意味をなさず、ばらばらであるということ。

 そんなばらばらを抱えているのが、わたしであるということ、たったひとりのじぶんであるということ。せかいとはそういうばらばらなものを抱えているということ。表現を越えようとするのがすでに耐えきれずむなしいじじつであるということ。涙すること。ちょうこくしていくという意味のむなしさに、ちょうこくする意味をみいだしていくこと。

 わたしのこのことばたちが、わたしとせかいとをわたしの感覚とかんねんで宙づりにしているということ。自分のばらばらが明滅しているということ。たまに戻ってくるということ。そんな狭間を文章をかきながら楽しもうとしていること。たとえいっしゅんでも、わたしがほんものであるしゅんかんが産まれたということ。ばらばらなのは自然であるということ。進化すること。見据えること。

 そして
 わたしは宙ぶらりんなまま、ここにほんものとして戻ってくる。そこには、いっしゅんだけど文章的な技法も型も、存在しなかったということ。

 わたしは、物語であり、ほんものであった。
 そしてこれからもほんものであり続ける。

 基本に立ち返るということばを、わたしは遥かに超越したということ。超克にはまだ至っていないかもしれないこと。頭がぐらぐらしていて、ぼんわりと靄けているいまのわたし。

 わたしはここに戻ってきた。そこに深い意味はない。表現が表現ではなく、表現されていただけだ。



 そうしてわたしは、いまはほんもののばらばらなのであった。



―――…跋(おわり)…―――
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