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半透明なサラダ

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押韻に就いての二三の考察(Prod. サギシ)


 ある記事をみて、私もなにかを書きたいとひさしぶりにおもった。

 話はもちろん押韻論。私がこれまで書いてきた押韻論(これあれ)を読めば、だいたい私の押韻理解はわかってもらえるかとおもう。

 しかし、押韻というのは難しい議題だ。

 まず、押韻を文章で読むか声にして喋るかという問題がある。これはまったく書き言葉(エクリチュール)な問題なのか、話し言葉(パロール)な問題なのかという問題に直結する。
 私は親切ではないため、ここからはおもっていることを十全と書いていくが、押韻の研究範囲とは想像以上に多岐にわたってしまうということは呈示しておきたい。

 純粋に押韻だけの問題を取り上げると、これは日本語ラップが「母音で押韻する」という、かつて日本語になかった画期的な技巧をみごとに呈示してくれたおかげで、おおよその広範にわたる押韻理解が進んだと認識している。

 しかし、これは「ビート」という概念が、いわゆる「定型」としての役割を勝ち得たために生じたものだと考えている。演歌を例に出すまでもなく、和歌などは五七五の定型をもつ。だが、これは「韻律」を規定する定型であり、和歌の定型は韻律や「掛詞」を発展させる定型であり、つまりは日本語ラップのビートが産んだ定型は「押韻」を生じさせる定型であった。(要するに漢詩や西洋詩における韻あるいはRHYMEが、日本語では「掛詞」というスタイルを取っていただけである。漢詩や西洋詩に掛詞がないのを「言語的に劣っている」と言わないのと同じで、日本語に押韻詩がなかったのは言語として押韻が似つかわしくないだとか劣っているからだという論はまったくナンセンスである)

 これは要するに、まったく「定型」の問題なのだ。和歌とは韻律と掛詞――つまりは子音を活かした頭韻に特化した定型であり、日本語の歴史で押韻詩が誕生しなかったのは、母音脚韻が効果的に発揮される「定型」が発見されなかったからである。それが、日本語ラップでは「ビート」という概念、つまりは「定型」が持ち込まれたことによって、一定のリズムキープのなかで押韻をすることが可能であると「発見」され、ここに「日本語における母音脚韻の技巧」が花開いたのだ。

 上記の掛詞について最初に論じた、詩人の那珂太郎の詩を見れば、子音頭韻の極地が表れているので、これが一目瞭然なので示そう。
 次に私が書いた、日本語による母音脚韻のソネット押韻詩の失敗例を示そう。


   夢・記憶 那珂太郎

  ゆら ゆら ゆりはゆれ
  ゆらぐゆめ の
  ゆふぐれの にほふ百合の
  しろいゆびが ひんやりと
  鮎 のやう きみの
  はらのうへを およぐ およぐ
  デルヴォオの 絵からぬけ出た
  おほきな瞳の
  蠟のすはだの をんなの
  あをじろい 遊漁のゆびは
  ゆつくり はふやうに
  きみの したはらのひふを くすぐり
  (在ること のふしぎ!)
  くさむらの 巣をまさぐる
  ゆらぐゆめの ゆりの香 にむせて
  きみの 小鳥のひなは う うごく
  (感じること のおそれ!)
  ふるへ ふくらみ 身をもたげ
  水牛のつの となり……(後略,一九九五年刊行『鎮魂歌』より)
 
 
 マチネ・ポエティクの中村真一郎や、飯島耕一が目指した押韻定型詩に比してみれば、那珂太郎の押韻詩は、詩壇でほとんど唯一認められている「音の詩学」である。一読して、これは良質な詩だというのは分かるし、ざらに書けないものだ。
 最新の詩学でいうと、蜂飼耳『顔をあらう水』(二〇一五)が、子音ではなく母音押韻のある、非常に画期的な詩を見せてくれたと思う(この詩集は本当に素晴らしい)。また詩壇では、佐藤雄一の『現代詩手帖』でのHIPHOPに関する連載も記憶に新しい。
 次に拙作のソネット押韻詩を呈示しよう、これを読むと、書き言葉(エクリチュール)における押韻の問題が「定型」にあることが分かるだろう。
 
 
    まどろみの空
 
   閉じた空が小さく笑った
   どこで見たんだろうね
   鈍重なそれは黄ばんだ蝋で
   遠い面影は短く語った
 
   深くまで行っても剥がれたまま
   あるいは全て流れながら
   ふと躓きのなかに停止して
   あと僅かな髄液を吸って壊死している
 
   いつ抱かれるのか
   そんな淡い焦燥に駆られて
   丸めたはずの包装紙は褪せて
 
   井戸の底にじっと身を任せるほか
   空を許してやることが出来ないから
   まどろんだ幻をそっと風に蒔いた
 
 
 詩であまり母音脚韻に拘泥すると、「反復の構造」で問題が出てくることがこの詩から分かるだろう。確かに押韻数は詩としては破格の量だが、定型の効果が薄く、これではまるで歌詞のようだし、押韻する必然性も希薄で詩的強度が足りない。ソネット定型をそのまま転化して日本語の詩に採用するには、まず「ビート」に匹敵するような反復の問題について考慮する必要が前提としてあるのだ。

 詩が歌詞に近づけば、詩としての「強度」「唯一性」を確保できないため、より詩的価値が落下し、押韻定型詩としての尊厳と存在意義に関わってしまう。椎名林檎や友部正人のような、強度も音的にも優れているアーティストもいるが、詩ではやはりより厳密さもほしいところだ。

 つまり、これが悲劇だが、これほど日本語ラップが素晴らしい日本語の押韻技巧を見せてくれているにもかかわらず、HIPHOPの「押韻の詩学」は、現代詩にはまるで応用ができないのだ。なんという私の無駄な研究努力!
 同様に、那珂太郎のような、現代詩で効果的な頭韻や子音中心のメロディアスな押韻技巧も、「声の瞬間性」のHIPHOPの前ではあまりにも認められない手法となってしまう。「揺れる百合が燃えもだえ夕暮れが崩れ」なんてフレーズをフリースタイルダンジョンとかでやったらフンパンモノだろう。

 日本語の「子音と頭韻」「母音と脚韻」は、これを違う性質をもったものとして分けて考え、ある程度この比較のなかで考察するのが、一旦は大事になるだろうと思われる。日本語の押韻の問題の境界線がここにあるとみても面白いだろう。どう共存させ、反発させるかは、また個々人の問題でもある。(初期のHIPHOPが子音で試行錯誤していたのは詩や和歌を参考にしたからだろうし、日本語の押韻を不可能と断じてしまった人たちの不覚もここにあるだろう)
 
 さて、現代詩が「音の詩学」についてのどの程度まで理解が進んでいるかの紹介ができたところで(これ以上の議論は私か詩人に直接聴いてくれ)、「声(パロール)」の問題だが、「声」は「一回性」と「瞬間性(時間)」をもつ。故に再現性のあるHIPHOPをすることは、たいへん難しいわけであるが、奇特な一部なHIPHOPerたちはこれを大きく進めたといえる。
 
 
   彼方 LITTLE
 
  ただただ わがまま あらわな はだかは
  はなやかさか はたまた はかなさか
  あからさまな 浅はかさが わかさならば
  やっぱ かがやかなきゃ
 
 
   あかさたなはまやらわをん KREVA
 
  面倒くさがらず面と向かって
  目と目を合わせコミュニケーション
 
 
   ミスターミステイク RHYMESTER
 
  俺は間違う男 ミスターミステイク
  味わうドン底 ミスターミステイク
  恥かくことも多いそれがどうした
  コケてコケてコケてコケて Don't stop
 
 
 母音押韻がいつ発明されたのかは知らないが、KREVAは間違いなくその形式の完成者のひとりだろう。『ため息はCO2』のHOOKの「ため息はCO2 なぜ君は辛抱する」や『瞬間speechless』の「Speechless 不思議です 雰囲気で」は、意味と固い韻を同時に通す彼独自のスタイルの顕著であるし、あるいは韻踏合組合以降、「インダストリアルな韻出すとリアル」になった訳で、同音異義語も素晴らしい押韻技巧の仲間入りを果たしたが「ロン毛は絡まってるぜ 空回ってるスキルはいらねえ」、押韻の段階としてはBOSS THE MCの手法なども通ったうえで、ほぼ完成されてきていると言っていい(2013年以降はフロー重視の響音主義も台頭してるが)。『基準』の「をゴミ呼ばわり 怒りようがない」などは母音押韻の極地だし、その意味でいえば那珂太郎的な「百合の揺れの夕暮れ」などは子音押韻の極地と言えよう。
 
 また音といっても、韻律や音の響きの問題(フォルマント的な)もある。パロールの差異(ノイズ)に核心を求めるのも確かな世界の記述方法だが、結論を時に外れて脱線するのも押韻学の魅力だ。

 さて、五七五の問題にも触れておこう。日本語は等時拍言語とかモーラ言語とか言われるが、等時拍言語についてはある程度嘘で、菅谷規矩雄『詩的リズム』(一九七五)によって、五七五論は射程を大きく広げており、そして今はわりと放置されている(韻律学はベテランの歌人が絶対詳しいのでそっちに聴いてくれ)。
 
 要するに、この菅谷規矩雄という詩人/評論家の論としては、五七五を朗読する時に、実は「自然に読むスピードが加速したり、減速している」という事実があることだ。
 
  古池や 蛙飛びこむ 水の音
 
 和歌は定型として概してこうなっている訳だが、実はここの「五を読み切る時間の長さ」と「七を読み切る時間の長さ」は、ほぼ等しい。実際、口に出して読むと、私たちは自然と、七文字を読むところで、読むスピードを、「ほんのすこし」、上げている。和歌は単純な五七五ではなく、その内部(内韻律)に「休符」があるのだ。
 
 古池や「うん」 蛙飛びこむ 水の音
 
 という風に、誰しもが「うん」という「休符」を気づかないうちに入れていて(休符を入れないとかなり読みにくく、違和感があるはずだ)、自然に和歌では緩急を入れて五七五を読むのではないだろうか。このように、発声上、和歌には「加速」や「減速」という概念がある。和歌の上の句は4拍子が三回繰り返される構造に(でもたぶん本当は4拍子じゃないぞ)、五音と七音という異なる音数が入り込んだ構造になっている、和歌は一定のキープされるリズムに、異なる音数が繰り返し反復されるという「ズレの構造」を抱えており、リズムと音数に差異がある「定型」であると言える。
(和歌がズルいのは「らりるれろ らりるれらりら るれろらり」みたいな意味のない文字列でも、発話するとみごとに定型的な韻律効果を発揮させることである。ただ和歌を書くさいに、定型に依存しすぎるといけないという観点も、寺山修司や塚本邦雄、加藤郁乎らは示してくれている)
 
 これに対して、私の書いたソネットの押韻定型詩は、音数的なズレは計算されておらず副産物的なものであり、それが「どういう反復構造を持つか」という視点に欠けているため、押韻詩として下手で、読むにくい印象を持ってしまう。これでは定型として強度を持たないのだ。詩に関していえば、押韻する以前に押韻を反復させる定型を詩的強度として用意しないといけないことがここから分かる。
 HIPHOPが日本語の歴史に母音脚韻の技巧をみごとに刻んだのは、一定のリズムをキープをさせてくれる「ビート」が画期的であったのであり、これが日本語における「押韻の定型の発見」に他ならなかったのである。
 
 柄谷行人ばりのかっこいいことが言えたのでもうかなり満足だが、ついでに、やおきさん直伝の「アニソンの押韻手法」にも触れておこう。こちらもなかなか巧妙で面白い。こちらを知ると、押韻するということが、実に言語的な「最小単位の反復」であることにまざまざと気付かされる。考え方としては、「押韻の展開と圧縮」そして「響き重視」である。
 
 
   君の知らない物語 supercell
 
  あれがデネブ、アルタイル、ベガ
  君は指さす夏の大三角 覚えて空を見る
 
 
 ここからはやおきさんの引用だが(http://togetter.com/li/94679)、この「押韻の展開」理論が実に面白いのだ。
 やおきさんの理論でいくと、最初の「」は「ルタイル、ベ」と頭韻と脚韻が同じであり、これがまさに「反復」、歌詞の論理的な導引であるというわけである(つまり言葉の並びは偶然ではない)。頭韻と脚韻が揃っていれば、中間の押韻と音数が違っても、相当なレベルの押韻的効果が得られることは、喩えば「ミステイク」と「見捨てずに行く」を、発話したときに如実に感じるだろう。
 中間音が、押韻と音数で揃っていなくても、かなりの効果が見込まれるのは、恐らく事実だ。私が思いついた範囲では、「シュプレヒコール」と「浮いてるぞ」も、発話したさいに不思議な響き的一致を感じる。先ほどから何度も書いてはいるが、これが単なる押韻とも韻律とも違う「響音」である。
 
 畑亜貴については彼に任せるが、こだまさおりについては『MIRACLE RUSH』(sm18151768)や『BINKAN♡あてんしょん』(nm23139438)という曲が、相当怪しい(韻に反応できる人ならかなりざわざわする)響音的効果を発揮しているので聴いてほしい。HIPHOP的な母音押韻には決してない、「音の流れ」「音の綴れ織り」のようなものを感じられる。
(すこし前ですが、私なりにこれあれで考察してます)
 
 KREVAの曲が秀逸なのは、単なる母音押韻だけではなく、この「綴れ織り」的な「音の流れ」も統制されているからだと思われる。これが音楽ならば「コード進行」がしっかりしているとでも言うのであろうか。どちらにしても、脚韻に拘泥しすぎて、脚韻同士を繋ぐあいだの押韻がブサイクでは、優秀な脚韻も素晴らしい効果を発揮しきれないのである。
(これは喩えフロー重視の押韻スタイルでも、同様な問題が起きるとかんがえられる)
 
 
 さて、たくさん書いたが(もう疲れたよ。もっと曖昧でいてくれ)、このように押韻の議論は正直言って、多岐にわたろうと思えばいくらでもわたれるため、渉猟して学術的論文にするのはかなり困難である、つーかやめとけ(どこかに限定して絞ったほうが良い論文になるし、総合的に理解するメリットが音オタクの好事家以外にまるでない)。音楽的、押韻的、韻律的、響音的、リズム的、音数的、フォルマント的、書面的、発話的、呪術的、さまざまな角度があって、どういうふうに音を理解するか、読解していくかが世界の独自な見開きかたになる。分かった気になるのが音では最強の落とし穴である(私も含めてだが)。
 
 とりあえず、一旦の締め切りにさせてもらって、またみんなで考えようではないか。結論がないのが結論だ(誤魔化しである)。お疲れ様。
 
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こだまさおりの作詞システムの考察2


 先回の考察に引き続き、作詞家・こだまさおりさんの作詞手法の考察をしていきます。
 今回の対象になる曲は『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』のOP曲「BINKAN♡あてんしょん」です。作曲者・高田暁さん、歌手は声優の橋本ちなみさん、小倉唯さん、金元寿子さんです。
 では、前半は母音中心の押韻理解、後半は母音理解をベースに、子音を混ぜた押韻理解で考察を進めていきます。
 
 
  ○ ○ ○
 
 
>(BINKANにあてんしょん 気づいてよ) inani aenon iuieo
>(BINKANにそりゅーしょん)ジワジワきてる inani ou-on iaiaieu
 まず注目されるのが「あてんしょん」と「そりゅーしょん」の押韻です。
 それ以外の母音押韻は見当たらないように思えますが、「」→「きづ」という母音の圧縮押韻の可能性や、「びんかんに」の「inani」という左右対称となる音韻配列が気になります。
 左右対称の音韻配列は、「じわじわき」の「iaiai」が存在することから、特に注目すべきだと感じます。
 また「そりゅーしょん」も「ou-on」という形をしています。このようなタイプの音韻配列にも注視すべきでしょう(※n音はu音として扱う場合があります)。
 
 
>ココロ亜熱帯注意 雨季・雨季 ナミダ予報士 Tell me oooa-e,aiuui uiui aiaooui eui-
>(雲行きは・成り行きは)あたし天気になあれ(天まかせ・運まかせ) (uouia aiuia)aaieniiaae (enaae unaae)
 一行目は「あねったい」と「なみだ」で「ai」の押韻。「ちゅうい」「うきうき」「よほうし」「てるみー」で「ui」の押韻をしています。また「こころ」と「よほうし」の「oo」も押韻していると考えられ、押韻が複雑に交互していると言えます。
 
 また二行目は若干歌唱の面で複雑になり、字の文の歌詞と、丸括弧内の歌詞とが分かれるようになります。そのため、対応関係がどのようになっているかに注意をする必要があります。
 字の文の歌詞だけの対応を見ると、一行目の「ai」の押韻を引き継いで「あたし」と言えますが、それ以外の音韻の説明が難しくなります。そのため、ここでは丸括弧内の歌詞が、字の文の歌詞にも影響を与えていると考えます。
 丸括弧内の音韻を見ていくと、「くもゆきは」「なりゆきは」が「uia」で押韻しているのが分かりますが、注目したいのは「なりゆきは」です。「なりゆきは」は「aiuia」という左右対称の音韻配列になっています。また、一行目の「ai」の押韻から「なり」が「ai」で、次の「あたし」の「ai」の押韻への繋ぎの役割もなしています。
 また「てんきになあれ」の「aae」は、「てんまかせ」「うんまかせ」の「aae」に繋がっています。
 
 
>キミは温暖化の温床 ハートは問題を叫ぶんだ iiaonanaoonou a-oaonaioaeuna
>(つきあって・むきあって)責任(くれるでしょ?)とってよね! (uia,e uia,e)eiin(ueueo)o,eoe
 まず「おんだんか」「おんしょう」「もんだい」の「on」の押韻が見えます。しかし一行目の問題は押韻よりも音韻配列にあります。まず「おんだんかの」の「onanao」であり、左右対称にほど近い音韻の配列になっています。また「はーとはもんだいを」も同様に「a-oaonaio」となっており、同じ音韻を使い回しています。この結果、全体で「きみ」以降連続して「a,o,n,u」の音韻が使用され、重低音的な音のイメージが増幅し、それが「さぶ」の「e」によって変化し、音韻が転調している印象を受けます。
 二行目は「つきあって」「むきあって」が「uia,e」で押韻。全体的に「e」が多く、前行の転調を受けて「e」が強調されているのではないかと感じます。
 
 
>きゅんとするのは 誰のせいなの 影響はもう甚大 unouuoa aeoeiao eiouaouinai
>戻れないと知っていても せめてもの悪あがき?(しちゃう) ooeaio i,eieo eeeooauaai(iau)
>そっちから振り向いて o,iaa uiuie
 まず「きゅんとする」が「unouu」で左右対称の音韻配列になっています。「だれのせいな」も、途中に「i」はありますが「aeoeia」となっていて、左右対称に近い音韻配列です。
 さて「えいきょうはもうじんだい」が問題になってきます。StylipSの「MIRACLE RUSH」の「サジェスチョン」と同じにおいがします。おそらく「えいきょう」は、「せきにん」と「だれのせい」の「ei」から、「えいきょうはもう」は「ouaou」という音韻配列的な理由から来ていると思われます。しかし「じんだい」は分からない。これ以前の歌詞全体を見ても、似た配列の音韻は「びんかん」か「もんだい」くらいしかありません。となると、ここまで出てこなかったタイプの音韻配列を、こだまさおりさんが意図的に選択しているという可能性も考えられます。しかし、そのような語彙選択で、果たして「じんだい」のような印象的なフレーズを思いつけるかどうかは疑問が残ります。
 次に「もどれないと」「しっていても」は、「もど」と「しっ」の「e」の対応と、「ない」と「いて」の「o」の対応が見えます。次の「せめてもの」が難解ですが、これは先述の「e」「o」の音韻に呼応するかたちで「eeeoo」と選択されたと考えることができます。また「わるあがき」は「ものわるあがき」と理解することで、「ooauaai」となっており、先述の「a,o,n,u」の低重音の音韻への転調と考えることが可能で、「しちゃう」も同様の処理だと思われます。
 それは三行目の「そっちから」へ繋がり、「i」の音韻を徐々に増やしつつ「ふりむい」の「e」の音韻へと渡しています。
 
 
>胸のおくがキミを選ぶの BINKANにねキミを感じてる ueoouaiioeauo inanieiioanieu
>女の子のヒミツ まだホントは教えたくないのに onaoooiiu aaonoaoieauaioi
 一行目は、ぱっと見で分かるほど明らかな対応関係にある押韻は見当たりません。しかし、「むねのおく」の「ueoou」や「をえらぶの」の「oeauo」のような、一音外れの左右対称とも見なせる音韻配列が見えます。「びんかんに」の左右対称も見逃せません。
 二行目は、「おんなのこ」と「ほんと」が「on-o」の押韻関係にあります。「だほんとは」の「aonoa」の左右対称も見えます。個人的に「のひみつ」の「oiiu」と「おしえたく」の「oieau」が、「oi-u」の展開押韻ではないかと気になります。「oi」は最後の「のに」にも繋がります。展開や圧縮の押韻は、音をどうでどう切り取るかで判断が揺れるので、難しいところです。
 
 
>反応の半径は(ドキドキ)限りなくゼロ地点へ anouoaneia(oioi)aiiau eoiene
>あ・て・ん・しょ・ん♡ aenon
 「はんのう」と「はんけい」の「an」の押韻が見えますが、「かぎりなく」の「au」とも対応していると考えられます。また「どきどき」は前行の「oi」の押韻から来ていると思われます。しかし、それ以外の音韻はなかなかどういう理屈で構築されているのか判断が難しいです。
 二行目の「あてんしょん」は、「ぜろちてんへ」の「en」からの導引だと考えられます。
 
 
 以上が母音中心の押韻理解になす。後半は「子音を考慮しつつ、母音押韻をどう理解するか」はまたいずれ。

こだまさおりの作詞システムの考察1


 作詞家・こだまさおりの歌詞のシステムの解明のため、独自に解釈をしていきます。
 個人的に、こだまさおりさんの歌詞は「歌声の響き」と歌詞自体が呼応あるいは対応しているのでは、と思っていますが。曲はStylipSより『MIRACLE RUSH』。
 
 
>冗談じゃない、わかるでしょ(you know?)
>油断できないこの事情(good luck)
「じょうだん」「ゆだん」、「じゃない」「できない」、「でしょ」「じじょう」あたりの押韻はすぐに見えます。「だん」「だん」など同一の音韻、また「しょ」「じょ」といった近い音韻によって押韻されていることが目につきます。
 また「ーのー」が、次の「だん」の「ゆ」の導引になっているのも指摘できます。また「ぐっらー」については、「ぐ」が「ゆ」の「u」の音韻から導引されているように感じます。
 
 
>究極の選択は永遠のトラウマ
「きゅうきょくの」「せんたくは」「えいえんの」「とらうま」は下線部分に注目したいです。
 音が凹んでいる部分に、「uo」「ua」の配置がされています。前行の「ぐっらー」の「ua」が導引とすれば、そこから「ua」「uo」「ua」「uo」「ua」という音韻の配置になっていると考えられます。
 
 
>勝ち負けじゃないキレイゴト(I know)
>励ましてくれてアリガト(thank you)
「きれいごと」と「ありがと」の押韻はすぐ見えます。また「かちまけ」「はげまし」は押韻の関係になると思いますが、その場合は全体的に散らばっている「ai」の音韻が注目されると思います。
 
 
>最後には自分なんだ 覚悟決めなくちゃ
いご」は、前行の「んきゅー」からの導引でしょう。「さいご」「かくご」や「なんだ」「なくちゃ」も押韻の関係と考えられます。
 
 
>気になるサジェスチョン
「さじぇすちょん」が、前行の「きめなくちゃ」と関係があるのかが難しいところです。
「さいご」の「さ」の影響力も考慮したいですが、ここの語彙選択に「こだまさおり節」なるものがあることは間違いなさそうです。
 
 仮に「なくちゃ」→「あくしょん」→「さじぇすちょん」という流れが想定されるなら、「さじぇすちょん」は導引可能に思えます。
 しかし現時点で、ここには「あくしょん」の役目を果たすものが観測されません。よって、こだまさおりさんは母音押韻以外の要因によって、語彙を選択している可能性を、引き算的に指摘できます。
 
 また「じれんま」と「きめなくちゃ」は押韻関係があるとも言えるでしょうが、「さじぇすちょん」→「じれんま」は導引可能でも、「じれんま」→「さじぇすちょん」の導引は考えにくいため、あまり採用されるべきではなさそうです。
 
 
>理屈は 時々無力でジレンマ
>流されてみてもいいのかも?
 可能性としては音数の一致があるかもしれません。日本語は音数が合えば、韻律がある程度、押韻の代替になります。
「さじぇすちょん」を母音回帰させて「aeuo」にすれば(この場合の「ん」はないようなものと考えられます)、「じれんま」は「ieua」、それが「ながされ」「aaae」への渡しにも見えてくるでしょうか。
 あるいは「りくつは」「じれんま」など、「i-a」の頭脚押韻も想定するべきかもしれません。どこまで揺らぎを許容するか、というところに問題はありそうですが。
 
 
>運命が回りだす 出たトコ勝負ではじめるの
>心の準備のアルナシは 待ってくれない
「uueia」「aaiau」「eaoo」「ouue」「aieuo」
「oooo」「u,io」「auaia」「aae」「ueai」
 
「unmig」「mwrds」「dttk」「shbd」「hzmrn」
「kkrn」「jnbn」「arnsh」「mat」「krni」
 
 母音と子音のみに展開してみて思うのは、ほとんど規則性がないと言うこと。音数はともかく、Aメロで見せていた押韻はどこにいったのか。サビに近づくにつれ、書き方を変えているのではと思ってしまうほど。
 
 個人的な耳を頼りにするなら、「しょうぶ」と「はじめる」の「o」、また「じゅんび」と「れない」の「u」の音の響き方が気になるところです。
 
 
>輝いてここ一番 自分の直感を信じて
>受け取った MIRACLE RUSH
>いま最高の奇跡に乗り込め
 これは不思議なことですが、「かがやい」「いちばん」「ちょっかん」「しんじ」の下線部分が、妙に音が響いているような気がしてなりません。
「いて」「ばん」「じて」「かん」の交互の押韻になっていると言えなくもないですが、日本語は英語やイタリア語と違い、押韻を交互させると急速にその効果が弱まることが分かっています。
 となると、「響く音」「響かない音」という風に、音に役割があって、それが交互に配置されている可能性が考えられます。
 ここでなら「い」「ここ」「じぶんの」「じ」あたりが「響かない音」、「て」「ばん」「かん」「て」が「響く音」だと言えると思います。
 と、思いますが、それが正しいのか、あるいは別の要因が関係していないか、メロディレベルで生成されているのか、フォルマント周波数レベルで生成されているのか、あるいはボーカルの声質によるものなのか、現時点では検討がつかないです。
 ただ、長短の繰り返しのように、音の響きの繰り返しが何らかの状態で保存されているのは、恐らく確か。
 
 
 後半に近づくにつれ、不明部分が多くなってしまいました。「こうかも知れない」を散りばめたものになっているので、内容も少し雑ですね。今回は一番のみでしたが、またいろいろチャレンジしたいと思います。